死ぬまで生き切るための「戻る力」

治療や健康について

不安や心配は、生きている限り誰にでもつきまとうものです。今より大きな苦しみに出会わないという保証は、どこにもありません。むしろ必ず訪れると考えておいたほうがいい。その究極が、誰もが必ず死ぬということ。人は、他の生き物と同じく、思っているよりずっとあっけなく命を終えるものですから。だから私は「隣の芝はドス黒い」とばかりに、どんなに恵まれて見える人をも、うらやましいと思うことがなくなりました。お金持ちでも、素敵な暮らしをしている人でも、誰もがいつか必ず死にます。「かわいそうな私たち。一緒に最期まで生き切ろうね。」あなたも私も、死からは逃げ切れません。だから、苦しみに沈むたびに、また立ち上がって戻ってこられるように——その力だけは、育てておきたいと思うのです。

仏教には「四苦八苦」という言葉があります。生・老・病・死の四苦に、愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)、憎い相手と出会う苦しみ(怨憎会苦)、欲しいものが手に入らない苦しみ(求不得苦)、心身が思い通りにならない苦しみ(五蘊盛苦)、という四つを加えたものです。その中で、人間関係の苦しみはその場を離れれば軽くなることもありますが、愛する人と必ず別れる苦しみ(愛別離苦)は、そうは簡単にいきません。自分だけの問題ではなくなるからです。私自身、子どもが命を落としかけた経験があります。あの時の感覚は、まさに奈落の底に突き落とされたようなもので、自分ではどうすることもできませんでした。あの経験から学んだのがまさしく、苦しみそのものはなくせない、ということでした。できるのは、そこに沈んだ後、また立ち上がる覚悟を持つこと。つまり「戻る力」を育てることだけなのだと思うようになりました。

この戻る力は、心や気持ちだけの話ではありません。実は体も、まったく同じ原理で動いています。今朝もトレッドミルでランニングをしながら思ったのですが、心拍数を上げる練習を重ねることは、血圧や心拍数が平常に戻る力を養うことにつながります。温冷浴も同じで、皮膚の発汗や蓄熱の働きを鍛えることで、体温を元に戻す恒常性が上がっていく。つまり体は、負荷をかけるだけで強くなるのではなく、負荷がかかったあと元に戻ることを繰り返して、その力を身につけていくのです。心が苦しみから戻る練習をしているのと、体が負荷から戻る練習をしているのは、実は同じ一本の線の上にあります。

だとすれば、普段から戻す力を養うということは、自分の体をむやみに甘やかさないことでしか手に入らない、ということでもあります。そういえば、江戸時代の歌人・橘曙覧が子どもに残した言葉に「うそ云ふな ものほしがるな からだだわるな」というものがあります。嘘をつかず、欲張らず、体を怠けさせるな、という意味なのですが、時代を越えて、まさにこの通りだと思うのです。どれだけ便利な道具や優れた健康法を使っても、体そのものが「戻る」ことをしなければ、いつまでも人任せです。高性能ギアはきっかけにはなっても、戻る力そのものを肩代わりはしてくれません。とはいえ、ここで厄介なのは、すでに戻る力が底をついている人に「鍛えろ」と言っても、ただの拷問になってしまうということです。疲弊しきった体には、鍛える前にまず整えることが要ります。

戻る力については、以前、瞑想について書いたブログでも触れました。運動や温冷浴で鍛えられるのは確かですが、それだけでは足りないというのが、正直な実感です。宣伝のつもりはありませんが、鍼灸にも、その戻る力の根っこになる体をつくる力があると、私は信じています。私自身が、それに何度も助けられてきましたから。七施鍼灸院がやりたいのは「治してあげます」ではなく、あなた自身の戻る力を、あなたと一緒に取り戻していくことです。この話、他人事だと思わず、誰にでも一度は考えてみてほしいのです。ご興味を持たれた方とは、施術中にそんな話もしています。


隣の芝がとっても青く見える時もあるかと思うが、隣もおたくの芝を羨ましく思っているかもしれない。


それは東洋医学的に見れば、寒暑に順応し、外邪に対する身体の防御力を育てる練習でもあるように思うのです。


結局、瞑想って「無になること」じゃなく、“戻る力”を育てることなのかもしれません。

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