根に持つためには、当たり前ですがエネルギーが必要です。皮肉ではなく、かなり真面目に。何年も前の一言を昨日のことのように覚え、恨み続ける。感情は本来一時的なものなのに、わざわざ思い出しては油を注ぎ、自分で燃やし続けているのですから、相当な燃料がいるわけです。問題は、その火が過去だけでなく未来まで焦がしてしまうこと。燃料が尽きれば、自らが灰になります。骨董品の蒸気機関車でさえ、石炭をくべれば前へ進みます。根に持つ人は、同じ石炭をくべても一歩も進みません。
鍼灸院にいると、体の不調の奥に、手放せない怒りや恐れが見え隠れする患者さんによく出会います。本人は「もう気にしていない」と言いますが、脈も皮膚もまったく笑っていません。根に持つのは心の仕事のようでいて、実は肉体労働、しかも無給です。森田正馬は、感情は思い通りにならないけれど、行動は選べると説きました。感情は無理に消さなくていい。薪をくべなければ、勝手に引いていきます。必要なのは、怒りを消す力ではなく、燃料をくべない力、離れる力、忘れる力。忘れるのは才能ではなく練習で、練習には見本が要ります。
子育てにも、よく似た構造があります。親の「こうなってほしい」も、握りしめ続ければ執着です。「あなたのため」と言いながら、実は「親の不安のため」だったりしませんか。しかもその期待の出どころは、「自分はこう育てられた」「自分はこれでうまくいった」という、たった一人分の経験です。代々受け継がれてきた不良品のバトンは、早めに手放して損はありません。
私の子育てのロールモデルの一人に、親戚のおじさんがいます。そこの子どもは、なかなかどうしてしっかり育ちました。おじさんは「嫌いなことなんてさせなくていい」と常々言っていました。嫌いなことは、放っておいても人生が山ほど連れてくる。親が上乗せする必要はない。好きなことをさせ、ただしその好きには責任が伴うと教え、あとは生活を教えるだけで十分だと。……と立派なことを言う本人は、わがままでこだわりが強く、嫌いなことは我慢ならない人でした。教育論というより、本人の願望だったのでしょう。それでも、見本は完璧でなくていい。言葉だけ拝借すれば、こと足ります。翻って私は、子どもが4人、全員成人。過干渉も放任もしていないつもりですが、果たしてどうでしょう。本人たちに確かめたことはありません。まあ、それぞれ「好き」は持っているようなので、案外間違っていなかったと思いたいところです。
親の教育は、たいていその子にとって「クズ」です。もちろん私も例外ではありません。そこそこの大学も出ていないのに、どの口で教育を語るのでしょうね。だから子育ては、できるだけ引き算でいくのがよいと思うのです。管理せず、任せることを増やし、「ああ、この道を選んだか」と、自分と違う道でも許す。たとえば、スポーツで仲間に恵まれた親の子が、群れるのが大嫌いで、読書とインドアを愛したとします。その子にとって「外で遊べ」「友達を作れ」は、親の思い出話にすぎません。親がその思い出を手放せないのには、理由があるのでしょう。自分を支えてくれた経験だからかもしれません。ただ、理由があることと、握りしめ続ける必要があることは別の話です。恨みも期待も、握っているあいだは石炭をくべ続けているのと同じです。あなたは今日も、せっせとくべていませんか。手放す練習には見本が要ります。
あなたに、子育てのロールモデルはいますか。

「ともだちってなんだろう」より
佐々木 正美 (著), 岡崎 勝 (著)


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