笑顔の連鎖

笑顔を作る様子のイメージ 治療や健康について

上機嫌でいることは大人としての最低限のマナーである——以前、そんな記事を書いた(上機嫌は大人のたしなみ)。我ながら立派なことを書いたものだと思う。ただし、書いた本人が四六時中上機嫌かというと、話は別である。理想と実践の間には、かなりの距離がある。泣ける。

顔で笑って心で泣く。その場で湧き起こる感情を垂れ流さず、TPOをわきまえる。ちゃんとしている人ほど、こうした振る舞いを大切にしている気がする。態度ひとつ、言葉ひとつで、人との縁もその後の展開も変わることを知っているからだろう。機嫌は案外伝染する。不機嫌な人の周りには不機嫌が広がり、何より自分自身が疲弊する。ネット上のトゲトゲしい言葉も、寂しさや怒りの裏返しだと思えば、少しは受け流せる。鍼灸師歴30年近くの私が、さも悟ったように書いているが、次の段落で修行不足を露呈することになる。

先日、朝から氏神様にお参りし、今日は良い日になると意気込んでいた矢先、訪問先へ向かう車のエンジン警告ランプが点灯した。時速30キロも出ない。後続車への迷惑、この先の坂道、途中で止まったら午後の訪問施術はどうなるのか。路肩で途方に暮れる自分の姿まで浮かんでくる。考えても仕方がないと頭では分かっていても、心は落ち着かない。そんな状態で、なんとか施術を続けた。結局、プラグ交換で済んだものの、そこそこの出費である。氏神様の御利益も、まさかこんな形で試されるとは。出口治明氏の言う「運と適応」、つまり運は選べないが適応は選べるという考えを思い出し、せめて手元だけは乱さないよう自分に言い聞かせた。還暦を目前にして、まだこの程度のことで動揺する。

帰宅して鏡の前に立ち、ふと思った。今日の私は、一日じゅう気を張った顔のまま患者さんの前にいたのではないか。手元は乱さなかったつもりだが、顔まで笑えていたかは怪しい。適応とは、心の乱れを顔にまで持ち込まない技術なのだろうか。人間関係は鏡のようなものだ。鏡が先にしかめっ面をすることはない。こちらが仏頂面をすれば、仏頂面が返ってくる。自分の機嫌は自分で取るしかないし、誰かに取ってもらおうと期待すれば、思いどおりにならないことに腹が立つ。だから、まずはこちらが笑ってみる。鍼を持つ手と笑顔がセットになれば、患者さんの体も少し緩む気がする。スタッフのいない一人治療院では、不機嫌な日に代わりに笑ってくれる人もいない。逃げ場がないからこそ、日々鍛えられる。ありがたいのか、迷惑なのか。

運とご縁は、笑顔と温かい言葉で育つのだと思う(運とご縁は笑顔と温かい言葉で育つ)。選べない運の中で、選べる適応をひとつずつ積み重ねる。上機嫌でいることは大人のマナーであり、自分自身への一番安い保険でもある。今日も七施鍼灸院の扉を開け、鏡より先に、こちらから笑っておこう。警告ランプには、もう当分点いてほしくないけれど。

コメント

タイトルとURLをコピーしました