還暦前の新人、閑古鳥と二人暮らし
南青山で二十年、鍼灸院を経営していました。そんな経歴も、今では履歴書の飾りにもなりません。いま閑古鳥だけが唯一の友達。院長も受付も掃除係もクレーム担当もぜんぶ私。話し相手がいないので、独り言だけが日に日に流暢になっていきます。鍼灸師歴は三十年弱の大ベテラン、なのに集客力は新人以下。還暦を前に、第二の青春どころか、第二の開業で現実を突きつけられています。
広島に帰って驚いたのは、子どもの頃から何も変わらない、変化を嫌がる安定感です。選挙は結果が先に決まっているかのように波乱が少なく、盛り上がるのは主にカープとサンフレッチェの勝敗。スポーツで熱狂してガスを抜き、日常に戻る。その繰り返しで現状維持が回っています。地元を愛する方には怒られそうですが、高校まで過ごした広島の閉塞感、この息苦しさが妙にこたえます。そんな毒を吐く私にも、この街は四十年ぶりに「おかえり」と言ってくれました。あっさり陥落、やっぱりいい街。はい、面倒くさい古里愛です。
人間関係は鏡だとよく言われます。鏡は先に笑いません。先に笑うのは、人間の仕事です。それが高じて私は毎朝、通行人に「今日も退屈なこの街で、お互い死ぬまで頑張ろうね」と心の中で、笑顔で挨拶しています。声に出せば、笑顔の不審者として通報されますから。これをやると、「あの人は羽振りがよくて羨ましい」といった劣等感が消えていきます。みんな死を携えた同志だと、朝から思い直せるからです。ただ、笑顔は大切、上機嫌は大人の最低限のマナー、などと偉そうに言いながら、ネットのトゲトゲした書き込みを根に持つタイプ。マナー違反の常習犯確定です。あの手の言葉は寂しさの裏返しで、彼らなりのガス抜きと思えば、少しはやり過ごせますが、そう思えるまでに三日かかります。燃費の悪い精神構造です。
先に笑うのも、先に出るのも、実は損な役回りだったりします。ただ、出る杭は打たれると言いますが、出なければ評価もされません。広島で出過ぎてみようかとも思いましたが、山を裸足で歩く変人は、そもそも相手にされません。それでも変人でいるのには理由があります。小児はりで子どもと接していると、どの子も自分だけの色を持っていると感じます。なのに最近の親は、保護者より教育者であろうとして、子どもを自分の色で塗り重ね、濁らせてしまう。そこに、はみ出した大人が一人でもいれば、子どもは安心して色を出せるのでは、と思うのです。偉そうに語る私も、世間に塗り重ねられて五十九年、濁った色を「個性です」と言い張っています。来年は還暦、赤いちゃんちゃんこで全部塗りつぶす予定です。
最後は、誰もがいつか死ぬという話で終わります。どうせ死ぬのだから、劣等感や妬みや恨みを抱く暇なんてないかもしれません。そんな暇があるなら、お灸でも据えたほうがよほど建設的です。心はなかなか自由になれなくても、せめて体くらいは自由にしてあげたい。橘曙覧の残した家訓に「うそ云ふな ものほしがるな からだだわるな」というのがあります。物を欲しがらず、身体を怠けさせない。それが心と体の自由への近道だと解釈しています。疲れたなら、それは頑張った証拠。肩も気持ちも重いときは、「大変でしたね」と言われに来てもいいのです。広島の府中町に、小さな鍼灸院があります。独り言だけは流暢な還暦前の男がいます。無理にとは言いません。何しろ予約表は今日も静かです。閑古鳥と二人、お待ちしています。



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