弥山を5往復して気づいた、ダラダラする自分も肯定していい理由

宮島・弥山の紅葉谷コースを登る山道 治療や健康について

昨日、20日(日)に宮島の弥山に登ってきた。しかも今回は5往復。紅葉谷公園からのコース。同じ道を延々と。結構頑張ったので詳細は改めて書きたいが、距離30km、総獲得標高はスマートウォッチによると3,573m(マジか)。我ながら、凄すぎる。ただ、途中から、やめる理由を探し始める私。水が底をつきそう、翌日の仕事に支障が出る、そんなに頑張って何か意味があるの? 確かに自己満足でしかない。けれど、風が体を包み、匂いや音が混ざり合う瞑想のような感覚が何度か訪れる。あれがいいんだよね。今年の目的の一つを達成できて、素直に嬉しい。

今の私の行動の根っこにコロナ禍がある。患者さんが激減し、母の死も相まって、心が不安定になり、宗教観や死についてぐるぐる考え込んだ。外では平気な顔をしていたが、一人になると、正直かなりやばかった。でも、こういう絶望は時にいい仕事をしてくれる。「大丈夫ですよ」とは言ってくれず、ただ「さて、どうする?」と迫ってきやがる。おかげで東京を離れる決断ができた。人は困らない限り変わろうとしない。逆子の妊婦さんは、「帝王切開になるかもしれません」と言われて、ようやく本気になる。私も、追い込まれるまで微動だにしない人間なのでよくわかる。

病気になる。けがをする。事故に遭う。死ぬまで何事もなく、と言い切れる人は皆無だ。私たちは、最大の不幸である「死」を携えて生きていくしかないのだから。この事実を前に、全ての不幸は霞にさえならない。「これさえやれば病気にならない」という話は、たいてい怪しい。頭では死を理解しているのに、身体は「終わってたまるか」と抵抗する。そのねじれこそ、生きている証だ。ならば、死ぬと分かっていても、何食わぬ顔で飄々と生きていこう。正岡子規いわく、悟りとは平気で生きることのようだ。凡人の私は、平気な顔の練習中である。

だからこそ、今やることを、やる。できる範囲で。だらだらしている自分も許す。気づいたら何時間もショート動画を見ていた、という日が私にもある。実は毎日のように。アルゴリズムの手のひらで、見事に踊っている。「なんで大切な時間を無駄にしたんだ」とは一ミリも思わないようにしている。ただ「自分は見ることを選択した」と思うだけだ。反省会は開かない。開いたところで、次の動画が始まるのだから。

選択は、自らの意思。絶望に背中を押されても、その先の向き合い方は自分で決める。精神科医フランクルは、人生の価値を三つに分けた。世間に差し出す「創造価値」、受け取る「体験価値」、向き合う「態度価値」。とくに体験価値は誰にも奪えない。山道で浴びた風も、その一つだ。自分では「無駄だった」と思う体験も、向き合う態度を自ら決めたなら、肯定されていい。できてもできなくても、うだうだした自分でさえ肯定しよう。気になることはやってみよう。ただし、弥山の同じ道を5往復は絶望的に退屈なので、今後は遠慮したい。猛烈に。鍼灸師として一言。登山後のパンパンの脚も、居座る肩こりも、心のもやもやも、まず身体をゆるめるところから。絶望の一歩手前で、思い出してね。

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