強がらなくていい、その椅子。

つよがらなくていいよ 考えていることについて

「先生、治してください」と言われるたびに、内心ちょっと焦ってしまいます。だって私は、患者さんを治したと思ったことなんて一度もありませんから。治っていくのはいつも、その人が本来持っている力。私はその力が働きやすい環境を整えているだけの、いわば黒子。……と偉そうに言っておきながら、自分の体のことになると途端に信じられなくなるのですから、笑ってしまいます。

患者さんの腰痛には「痛みも今だけですよ、2週間もすればほぼ消えます」と平然と言えるのに、自分の腰が痛むと「これはもう一生治らないパターンだ」と勝手に確定診断を下してしまいます。他人の体には無常を説き、自分の体には無常を許さない。人の力は信じられるのに、自分の力はまるで信じられない。夜な夜な一人反省会が開かれ、司会も説教役も落ち込み役も、全部この私。配役、誰か変わってほしいものです。

ヴィパッサナー瞑想には「Anicca(無常)」という言葉があります。すべては生まれ、変わり、やがて消えていく。嬉しさも悲しさも痛みも、永遠には続きません。瞑想中はそれを何度も何度も自分に言い聞かせるのですが、実生活ではスーパーのレジで前の人が財布を探し始めただけで「無常もクソもない、早くしろ」と苛立つ私がいたりします。修行は、まだまだ道半ばどころか入口にすら立てていないようです。

そんな私が言うのも恐縮なのですが、この「すべては変わっていく」という無常の考え方は、東洋医学とよく似ていると思うのです。東洋医学は病気だけを診ません。眠れているか、食欲はあるか、最近笑えているか。「肩が痛いから肩だけ診る」ということは、そもそもできない仕組みになっています。肩の痛みも腰の痛みも、その人の人生の一場面として現れた現象だからです。体は、毎日変わります。だから今日のあなたと来週のあなたは別人で、毎回、初診のつもりで向き合う必要があります。

浄土真宗に「仏の前で強がる必要はない」という教えがあります。大丈夫じゃないから、仏さまの前にいる。弱くていい、愚かでいい、そのままでいなさい、と。この言葉が、私は好きです。治療院に来られる方も同じで、痛みだけでなく、仕事や人間関係、育児や介護、不安や焦りを抱えてここにいます。多くの人が、相手を責め、境遇を責め、最後には「こんなことで悩む自分が悪い」と自分を責めています。だから私は、診察室で「正しいこと」を言おうとは、あまり思っていません。正論は、人を救わないことがたまにあります。でも理解されることは、人を少し楽にします。

鍼灸師になったばかりの頃は「病気を治せる治療家になりたい」と思っていました。今は少し違います。帰り際、来た時より少しだけ穏やかな顔で鍼灸院を出て行ってもらえたら、それで十分だと思うようになったからです。東洋医学は病気を相手にする医学ではなく、人を相手にする医学です。肩でも腰でも逆子でもなく、その人がどんな人生を歩み、何に苦しみ、何を大切にしているのか——そこに耳を傾けることから、治療は始まります。

痛みや辛いことは、無理に消そうとするほど、かえって居座ります。それよりも、痛みや辛いことがそこにあると一度認めて、自分の中に置いてやる。許してやる。そうしてはじめて、痛みや辛いことのほうから、少しずつ離れていってくれるような気がしています。今日も私は、誰も治せていません。それでも、その人が本来持っている力を信じて、隣に座り続けることはできます。もしよかったら、その隣の椅子に、一度座りに来てほしいです。


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