七回忌に思う、末端を大切にする生き方

母の七回忌を通して考えた、末端を大切にする生き方と東洋医学 治療や健康について

昨日8月30日、母の七回忌が無事終わりました。次は十三回忌とのことで、しばらく間が空くようです。今思えば、母が亡くなった時、年末年始も含め、100日ほど毎朝7時から築地本願寺のお晨朝に通い続けました。普段は薄情を自負しているくせに、身近な人の死を、しかも自分の親の死への関わりを、意味なくお寺さんに通うという行為を通して、自分の感情がよくわからなくなっていたのを思い出しました。

ところで私はよくブログで、どこに住もうと地震や台風から逃れられないこの日本に生まれた因果なのかもしれないという考えを口にしています。死に関心があるのでしょうね。どうも死に対して少し俯瞰的になってしまうようです。以前、NHKラジオ英会話のテキストに「日本人は失敗を無茶苦茶恐れる人が多い」という表現を目にしたことがあります。これも天変地異があまりに多い国だからこその感覚なのかもと思っています。国土面積は世界のわずか0.25%なのに、マグニチュード6以上の地震は世界の20%以上がこの国で起きる。活火山も世界の7%を占める。そこに台風や土砂災害までデフォルトで加わるのだから、良い人でいて村八分を避けねばという意識が、無意識のうちに私たちの潜在意識に巣食っているのだろうと思います。

それにしても、日本人は震災や土砂崩れを忘れるのが早すぎますよね。いや、忘れるのではなく「忘れたがる」というのが正しいかもしれません。平時は政治家がどれだけヘボでも、官僚や公務員だけで十分まわります。でも有事はそうはいきません。胆力ある政治家が出てこなければ、国の存亡に関わると思うのです。なのに現実は、福岡県議会等でもわかるように、巻かれに巻かれて胆力を失い、まだ選挙戦も始まっていないのに次の選挙にすでに目が向いている政治家が、忖度を武器にこの世界で生き残ることだけに終始する。未曾有の有事が増えつつある今、この国はどこに向かうのか、心配で仕方ありません。

そんなことを考えている最中、西田幾多郎の「世界は罪を持ちながらに美である」という言葉を思い出しました。確かに容赦のない自然災害をいつも目の前にしているにもかかわらず、世界は対立しあっています。でもその混沌の世界にこそ、かえって美の存在感が増すのかもしれません。そう考えると、体もまた小さな混沌の集合体です。東洋医学では、陰陽虚実、その混沌の中にある固い結び目を緩めていく作業で体を癒していきます。だからと言って悪いところを切り捨てるのではなく、体に巣くう悪さをする細胞ですらも必要とすることがあるのです。特にその治療では、肘から先、膝から先にある重要なツボを用いることで体の変化を引き出していきますが、それが何を意味するのか。世の中も同じで、地方を切り捨て、末端を大切にしない政治や経済は必ず行き詰まること必至です。罪を含むからこその美、末端あっての中央だというのに。

身近な人の死は、いつも自分の生き方を改めて考えさせてくれます。有事への備えも、普段からの何気ない連帯も、結局はそこから始まるのだと思います。


世界の陸地面積の約0.25%しかないのに、
マグニチュード6以上の地震の約20%が発生する国。


「Tsunami」が世界共通語な時点で、説明はだいたい終わっている。

地震、台風、大雨、猛暑。
雪は「遠慮? なにそれ?」という顔で降ってくる。

北海道から沖縄まで、安全地帯皆無、ゼロ
自然は年がら年中、不眠不休でこちらの生存能力をテストしてくる。

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