昨日は広島の「原爆の日」。毎年午前8時15分に黙祷するのが私の恒例だ。ただそこでいつも「過ちは繰り返しませぬから」と誓ってはいるのだが、結局何もできていない。私は広島で生まれ育ち、高校を卒業するまでこの街で過ごしてきた。それなのに毎年、「今年こそちゃんと考えよう」と思っては、気づけばお昼ごはんの心配をしている。そんな年を何度も何度も繰り返してきた。被爆した年長者を身近に知っているにもかかわらず、この体たらく。
そんな中、雑記帳を見返したときに見つけた言葉に目が止まった。「誰もが必ず死ぬ。それを意識することで、生きる苦しみに向き合える」。不謹慎かもしれない。でも、この言葉は意外と人を生きやすくしてくれる。今日は、そんなことを少し考えてみたい。
そんなことを考えていた矢先に思い浮かんだのが、水木しげるさんのこの言葉だ。「要するにすべては屁のようなものであって、どこで漂っていても大したことはないようである」。「ゲゲゲの鬼太郎」の作者らしい、飄々とした達観がある。戦争で左腕を失い、苦しみ抜いた人が、こんなにも軽やかな言葉を残せることに、私は正直少し救われる。
人は皆、病気や死という宿命を抱えて生まれてくる。それは誰にも変えられない。鍼を一本刺すたびに、私はこの「必然」と毎日向き合っている気がしてくる。だからこそ、「人生で今日が一番若い日」という言葉も、青くさい励ましではなく、意外と真理に近いのだと思う。
東京では逆子治療のご縁で、たくさんの妊婦さんと出会った。お腹の中の小さな命は、生まれる前からすでに自分だけの「色」を持っている。なのに親は、つい「こうあるべき」と、自分の色を塗り重ねたくなってしまう。広島で失われたのは、まさにこれから色づくはずだった無数の未来だった。平和記念資料館に足を運ぶたび、その「まだ塗られなかった色」の重さに、施術とは関係のない話だが胸が痛くなる。せめて自分の患者さんの前では、余計な色を上から塗らずにいたいと思う。
とはいえ私自身、そんな崇高な気持ちで毎日を過ごせているかというと、正直、車に乗っているとき、ウインカーを出すのが遅い車を見るだけで不機嫌になる程度の人間である。ただ、「上機嫌でいることは大人の最低限のマナー」という言葉だけは持ち続けていたい。
8月6日、午前8時15分のサイレンを聞くたびに、自分の不機嫌さなど本当にちっぽけなものだと思い知らされる。悩みは話せば笑い話になるというけれど、平和というテーマだけは笑い話にせず、その重さをきちんと抱え続けたいと思っている。
黙祷を捧げれば、また日常が戻ってくる。この「戻る」ということ自体が、実はとても恵まれたことなのだと、鍼を打ちながら改めて思う。今日という一日を、誰かに塗りつぶされることなく、自分の色のまま生きられること。それこそが、あの日奪われたものへの、ささやかな返礼なのかもしれない。というわけで今日も、患者さんの色を消さないよう、静かに手を動かしていこうと思う。

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