「親のエゴ」という言葉について、最近考えさせられることがありました。ダウン症のある子を産むかどうか。障がいのある子をどの学校に通わせるか。そんな話題に「親のエゴでしょ。子どもが可哀想」という言葉が投げられると、それまであった議論がぴたりと止まってしまいます。本当に便利すぎる魔法の言葉です。正直、こんな一撃必殺のフレーズがあるなら、弁護士も裁判官もいらないんじゃないか、とすら思ってしまいます。出生前検査で染色体異常について分かることはあっても、生まれた後の人生まで予測できるわけではありません。分からない未来を前に、親は迷いながら決める。その決断を外から「エゴ」の一言で片づけるのは、あまりにも単純すぎると思うのです。
学校選びも同じです。学区内の学校に通いたい、通常学級で必要な配慮を受けたい。そこに「エゴだ」「わがままだ」という声が飛んでくる。でも、そう言える人たちは、自分の子どもは学校に何の手もかけさせず、清く正しく完全無欠に育ってきたとでも思っているのでしょうか。もちろん、支援体制の手厚さは自治体や学校によって違います。だからこそ「この学校に行けばいい」と外から簡単に決められる話でもありません。それでも、子どもは誰かに支えてもらいながら育つものです。障がいのある子にエレベーターが必要になったとき、「そこまでする?」と切り捨てるのではなく、学校側と家庭、双方の負担をどう減らせるかを一緒に考える。そちらのほうが、ずっと建設的だと思うのです。
もちろん、「親の希望を通せばいい」と言いたいわけではありません。通常学級、支援学級、特別支援学校、それぞれに良さも課題もあります。子どもの状態や本人の意思、学校の体制、家庭の事情によっても答えは変わる。ケースバイケースの話です。それなのに外野が「可哀想」「エゴ」の二文字で一括りにするのは、あまりに乱暴だと思うのです。「可哀想」という言葉にも、自分の中の物差しが隠れていますよね。人は誰だって誰かの世話になりながら生きています。今まで誰にも迷惑をかけずに生きてきた人がいるなら、ぜひ一度お会いしてみたい。私なんて、迷惑をかけた記憶しかありませんし、多分これからも量産し続けます。
「親のエゴ」という言葉が厄介なのは、親の選択を批判できるからではありません。そこにある迷いも、怖さも、子どもへの思いも、支える側の苦労も、全部まとめて見えなくしてしまうからです。親が「この子にどう生きてほしいか」と願うことまで、エゴと呼んで終わらせていいのでしょうか。必要なのは、「この子にとって何がいいのか」「本人はどうしたいのか」「そのために学校や社会は何ができるのか」と、一つずつ考えていくことだと思います。魔法の言葉で終わらせず、面倒くさい現実を、面倒くさいまま考える。それが、人と一緒に生きるということなんじゃないでしょうか。
「親のエゴ」という言葉で誰かの決断を簡単に裁く前に、「自分だったらどうするだろう」と一度立ち止まる。そして、「じゃあ、どうすれば少しでも楽にできるだろう」と考えてみる。正解なんて、たぶんありません。だからこそ、簡単な言葉で終わらせない。答えが出ないまま考え続ける余白こそが、人間には必要なんじゃないかと思います。


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