教えたがる人は、世の中に驚くほど多いです。しかもたちが悪いことに、たいてい本人は「自分は正しい」と信じきっている。ああ恥ずかしい、これ完全に自分にも刺さる話です。実は私も、子どもがちょっと勉強できるとわかった途端、中学受験に妙に熱心になった時期がありました。気づけば、塾のパンフレットを片手に「この子には可能性がある」とか言い出す始末。あれ、完全に「教えたがる人」の入り口でした。行きすぎるって、案外あっという間なんですよね。もちろん、良い学校に行くこと自体が悪いわけじゃありません。本人が望んで選んだ道なら、それは立派な「良い人生」です。問題は、それが「唯一の正解」になった瞬間からだと思うんです。劣等感の裏返しで、子どもに学歴という鎧を着せたがる人も同じ。良きにつけ悪しきにつけ、自分は正しいと思い込める人は、ある意味うらやましい。私なんて自分の人生についてすら「これで合っているのか」と、いまだに首をかしげているのに。迷いがないというのは、もう一種の宗教。神様仏様を疑わない信者は、ほんとに強いです。
けれど、人間万事塞翁が馬なんですよ、マジで。仮にそのアドバイスが全宇宙的に「成功への近道」だとしても、それが本人にとって正しいかどうかは、神のみぞ知る、いや神も知らないんじゃないかと思うんです。眉をひそめられた道を選んだ末に豊かな人生を得る人もいれば、拍手喝采された成功がじわじわ本人を蝕んでいくこともある。渦中の本人にすらわからないことを、なぜ他人がこうも堂々と口出しできるのか。もちろん、聞かれて答えるのは別です。私自身、聞かれたら自分の経験は話します。厄介なのは、頼まれてもいないのに差し出される助言の方。教える側の自信は、たいてい本人の人生の狭さの裏返しでもあるんです。ああ恥ずかしい、これ自分への戒めですね。私こそ、狭い人生を生きている自覚は十分にありますから。
ほんと、あちこちの壁に頭をぶつけながら生きてきました。お灸で火傷を負わせて治療費を全額支払ったこともあるし、子育てでは目を離した隙に子どもに大怪我をさせ、示談まで10年かかったこともあります。もちろん今もいっぱいあるんです、恥ずかしいから言えませんが。褒められた選択ばかりではなかったし、遠回りも数え切れないほどしました。それでも、その苦労が今の、まあまあ面白くなってきたかな、という自分をかたちづくってきている気はします。皆と同じ方向へ素直に歩いていたら今の価値観は手に入らなかった気がする一方で、選んだ道に胸を張れるかというと、それも全くありません。要するに、失敗だらけの人生に無理やり意味をこじつけているだけなんですね。フランクルの「自分が人生に何を期待するか」ではなく「人生が今、自分に何を求めているか」みたいな。そんなこじつけを持ちつつ前を向き続けるのが、性に合っていたようです。
だからこそ、今のところはこう思っています。教えたがる人の言葉を、良いことを言いたがる人の言葉を、そのまま鵜呑みにする必要はないと。彼らの「正しさ」は、彼らの人生から抽出された、彼らだけの正解にすぎないのですから。もちろん耳を傾けることは大切。頑なに拒絶するのも、それはそれで一種の傲慢なんです。ただ、自分の人生の舵は、最後まで自分の手に握っておきたい。誰かの物差しで測られた「良い人生」より、自分の物差しでしか測れない、不格好な人生の方が、私はよほど信用できる気がします。
自分の価値観をどう正しく持ち続けるか。答えは簡単ではありません。けれど少なくとも、壁にぶつかった痛みを忘れず、その痛みが自分を育てたのだと思えている間は、人は誰かの敷いたレールに完全には呑み込まれずに済むんじゃないでしょうか。教えたがる人たちには、心の中でそっと会釈だけして、今日も自分の足で、よろけながらも歩いていく。それでいいんだと思うんです。これは、たぶん私だけの話ではなくて、今レールの上でしんどさを感じているあなたにとっても、同じなんじゃないでしょうか。応援しています。

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