「おはようございます」が命を救う国|なぜ日本人は挨拶を大切にするのか

とっても大切な挨拶について 考えていることについて

だいぶ前の話だが、電車で元気いっぱいの子どもを見かけた。

寝転がる。
大声を出す。
お父さんを呼ぶ。

まあ、子どもなのである。

こちらも四人の子育てを終えた身としては、

「ああ、あの頃は本当に大変だったなあ」

と懐かしく眺めることしかできない。

やがてお父さんも少し疲れてきたようだったし、雰囲気、席を譲っても大丈夫そうだったのでそうしたら、とても丁寧にお礼を言われた。

そのあと、

ほら、ありがとうって言いなさい!

と子どもの頭を押さえ、お辞儀をさせようとした。

その姿を見て思わず笑ってしまった。

気持ちはよく分かる。

私もやった。

親になると、なぜか子どもの挨拶に命をかけ始める。

あれは一体、何なのだろう。

挨拶なんて形式だけ?

最近は、

「挨拶なんて形だけ。」
「強要するものじゃない。」

そんな意見も耳にする。

それも分かる。

実際、私は子どもに無理やり挨拶をさせる必要はないと思っている。

親が自然に挨拶していれば、子どもはちゃんとそれを覚える。

子どもは、親が思っている以上に親のことをよく見ている。

だから頭を押さえてお辞儀をさせなくても、親が普段から人に頭を下げていれば、その姿をいつの間にか真似するようになる。

……と、頭では分かっている。

でも親になると誰もが気になるんだ。

「うちの子、ちゃんと挨拶したかな。」

子育てって、自分の理想と現実を毎日行ったり来たりする修行なのかもしれない。

山では挨拶が命に関わる

山登りを始めて気づいたことがある。

山では、知らない人同士でも自然に挨拶をする。

高尾山や宮島の弥山のような、ラフな服装で登る人が多い山でもそうだし、本格的な登山になればなるほど、その割合は増えていく。

もちろん、
「遭難した時のために挨拶しておこう。」

そんなことを考えながら歩いている人は、ほとんどいないだろう。

でも、長い時間をかけて受け継がれてきた登山文化の根っこには、

「山では助け合うものだ。」

という暗黙の了解があるように思う。

だから自然と声を掛け合う。

どこで会ったか。

どんな服装だったか。

疲れていそうだったか。

ほんの数秒のやり取りでも、その人は記憶に残る。

もし何かあった時、

「あの人なら、さっきあそこで見ました。」

その一言が救助につながることもある。

山では挨拶は社交辞令ではない。

安全装置なのである。

もちろん挨拶をしなかったからといって、助けないなんてことはない。

……たぶん。

いや、ちゃんと助ける。

でも、
「ああ、さっき挨拶してくれた人だ。」

と思う方が、ほんの少しだけ体が動きやすい気がする。

人間なんて、その程度の生き物なのだ。

日本もまた「助け合い」で成り立ってきた国

私は以前、このブログで、日本は災害国家であり、依存国家でもあるという話を書いた。

  • 地震
  • 台風
  • 豪雨
  • 豪雪
  • 猛暑

火山までもが世界でも最大級に猛威を振るう、それが日本なのである。


世界の陸地面積の約0.25%しかないのに、
マグニチュード6以上の地震の約20%が発生する国。


「Tsunami」が世界共通語な時点で、説明はだいたい終わっている。

地震、台風、大雨、猛暑。
雪は「遠慮? なにそれ?」という顔で降ってくる。

北海道から沖縄まで、安全地帯皆無、ゼロ
自然は年がら年中、不眠不休でこちらの生存能力をテストしてくる。


それでも治安は良く、公共交通は正確に動く。

この秩序は、誰か一人が頑張って作っているものではない。

列に並ぶ。

ゴミを持ち帰る。

周囲に迷惑をかけない。

そんな一人ひとりの行動の積み重ねで、この国は成り立っている。

私たちはそれを「マナー」と呼んでいる。

でも本当は、この国で生きていくための知恵なのだと思う。

イザベラ・バードが見た日本

そのことを考えるたびに思い出すのが、イザベラ・バードである。

彼女を知ったきっかけは、日光の金谷ホテルだった。

宿泊したとき、スタッフの方が、

「イザベラ・バードの話なら何時間でもできます。」

とうれしそうに話してくれた。

そこまで言うなら読んでみよう。

東京へ戻ると、すぐに『日本奥地紀行』を買った。

そこには、今とはまったく違う日本が描かれていた。

外国人が歩けば、村人が障子の向こうからのぞいている。

今なら「プライバシー!」と炎上しそうな光景である。

でも当時は違った。

見知らぬ人は、共同体に影響を与える存在だった。

地震。

飢饉。

洪水。

感染症。

自然災害と隣り合わせだったこの国では、共同体が壊れることは、そのまま命に関わる。

だから、

「あの人は誰だろう。」

を皆で気にする。

その名残が、今の日本にも残っているように私には思える。

日本人は、人種より「この人は大丈夫そうか」を見ている

青年海外協力隊でパナマにいた頃の友人からも、日本で暮らす外国人からも、何度となく聞いた話がある。

日本は思ったより人種では見られない。

もちろん差別がないわけではない。

外国人との摩擦が起きている地域もある。

それでも、多くの人が口をそろえて言うのは、

肌の色より、マナーを見られている感じがする。

  • 日本語で挨拶する。
  • 軽く会釈する。
  • 列に並ぶ。
  • ゴミを持ち帰る。
  • 周囲への配慮を忘れない。

それだけで驚くほど受け入れられやすい。

逆に、

「自分の国では普通だから。」

を押し通そうとすると、一気に距離が生まれる。

良い悪いではない。

日本という国は、そういう文化の上に成り立っているのだと思う。

挨拶は「私は敵ではありません」というサイン

考えてみれば挨拶とは不思議である。

「おはようございます。」

たったそれだけ。

情報量はほとんどない。

それなのに、その一言だけで安心する。

心理学では「単純接触効果」と呼ばれるそうだが、人は見慣れた相手に安心感を抱く。

  • 町内会でも。
  • 学校でも。
  • 職場でも。
  • 鍼灸院でも。

挨拶をする人は覚えられる。

そして困った時、

「あの人なら。」と思い出してもらえる。

人は理屈だけで助け合っているわけではない。

安心感や日頃の積み重ねも、大きな力なのだと思う。

私も偉そうなことは言えない

ちなみに私は毎朝四時前に起きる。

  • 弁当を作って、
  • 家の周りをちょっとだけ掃除して、
  • 筋トレをして、
  • 瞑想もたまにする。

近所の人から見れば、

「あの人、毎朝暗いうちから歩き回ってるけど大丈夫?」

と思われても不思議ではない。

だから誰より先に挨拶をする。

これは、

「怪しい人ではありません。」

という地道な広報活動なのである。

たかが挨拶、されど挨拶

東洋医学には「未病」という考え方がある。

病気になってから治すのではなく、病気になる前に整える

私はこの考え方が好きだ。

人間関係も、きっと同じなのだろう。

壊れてから修復するのは難しい。

でも、

「おはようございます。」

なら三秒で済む。

その三秒が、いつか困った時、自分を助けてくれるかもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました