「念のため、安静にしておきましょう」
この“念のため”という言葉ほど、万能で、便利で、しかも誰も責任を取らなくていい魔法の呪文は、そうそうないと思う。
言った瞬間、場は一気に安全になる。
少なくとも、言った側の立場は。
気づけば医療の現場は、「やってもいいこと」よりも「やらないほうが無難なこと」で、ぎっしり埋め尽くされてしまった。
もちろん、安全が大切なのは言うまでもない。
でも最近の医療は、「安全であること」そのものが、目的になっていないだろうか。
死ななければ「成功」、になっていないだろうか。
本来、安全は手段のはずだった。
その人が、その人らしく生きるための。
妊婦さんが、自分の身体と折り合いをつけながら、出産に向かうための。
ところが、いつの間にか、
- 安全=考えさせないこと
- 安全=決められたレールに乗せ続けること
そんな空気が、当たり前になっている。
医療が「安全第一」「エビデンス重視」を掲げれば掲げるほど、現場からは判断の余地が、静かに消えていく。
なぜなら、考えるという行為は、必ず“ズレ”や“例外”を生むからだ。
- 一人ひとり違う身体、違う背景、違う不安。
- それを限られた時間で引き受けるのは、正直めんどうだ。
- だからすべてをマニュアル化し、「みんな同じ対応」にする。
- そのほうが管理しやすく、説明もしやすい。
そう、安全という名のもとに。
では、その結果、何が消えただろう。
妊婦さん自身が感じている、
「今日はちょっと動けそう」
「今日は休みたい」
「やっぱ今日は満月だったのね」
そんな身体の声。
これらの感覚は、決していい加減なものではない。
むしろ、人が生きていく上で本来備えている、大切なセンサーだ。
でも、妊娠している時から身体の声を無視し続けていれば、
子どもの声が聴けなくなるのは、ある意味当然だ。
妊娠中に育てておくべき、子育てに必要な「勘」が、養われるはずもない。
そしてそれは、医療者側も同じだ。
「この人は大丈夫そうだな」
「ここは慎重にいこう」
そうした現場の勘も、
- エビデンスがない
- 責任が取れない
- 説明責任が生じる
- 訴訟になったら誰が責任を取るのか
- ガイドラインに沿っているのか
そんな理由で、静かに、静かに後ろへ追いやられていった。
安全になった代わりに、
人は少しだけ、不自由になったのかもしれない。
安全が悪いわけじゃない。
むしろ、必要不可欠だ。
でも、安全を過剰に守るあまり、
人が考えることまで手放してしまったとしたら。
それは本当に「安全」と呼べるのだろうか。
次回・第3回では、
「じゃあ、医療に残されている“余白”って何なんだろう?」
そんなところを、もう少し考えてみようと思っている。
答えは、きっと見つからない。
でも、問いを手放さないことくらいなら、この私にもできる。
そう思いながら、続きも書いてみようと思う。
(次回は2月27日(金)予定)
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