南無阿弥陀仏に生かされる??
若い頃の私は、自己中心的で幼く、誰かに褒められればすぐ調子に乗り、否定されるとすぐ落ち込む、、
そんな、ほんとうにどうしようもない人間でした
だから心はいつも不安定で、平常心を保とうとしても、なかなかうまくいかなかったように思います
「自分の愚かさをさらけ出したほうがいいよ」
そう助言されたこともありましたが、そう言われてもね、恥ずかしさが先に立ち、とても行動には移せませんでした
それでも、そんな私を母は変わらず見守り、愛してくれていたように思います
浪人や留年、、、
バブルの終わりでまだ就職先があったにもかかわらず、ふらふらと過ごしていた私に対して、
母は一度たりとも責めることはありませんでした
「何かあったら、いつでも言ってね」
そう言って、ただ静かに、私のそばにいてくれました
そんな母が、80代半ばで突然亡くなりました
私はきっと泣き崩れるだろうな、なんて思っていましたが、意外にも思ったほど涙がでません
ただ淡々と、日常をこなしていた感じがします
悲しいとか寂しいとかそんな感情よりも、せめて位牌だけでも、といった表面的なことが気になり、自分の宗派を改めて調べてみると、、、
我が家は「浄土真宗本願寺派」で、東京でのゆかりのお寺は築地本願寺であることがわかりました
東京に長年住んでいながら、築地本願寺を訪れるのはそれが初めてのことでした
ホームページを見ると、毎朝7時から「晨朝勤行(じんじょうごんぎょう)」が行われているとのこと
興味半分で参加してみたところ、その朝の時間が思いのほか心地よく、都合が合えば通うようになっていました
そして、
あの朝の時間の中で、ようやく私は母の死に静かに向き合うことができたように思います
お坊さんの読経に声を合わせて唱えていると、胸の奥に溜まっていた何かが、少しずつ吐き出されていくような、、
あの、不思議な感覚、、
お坊さんと一緒に声を出して唱える日々は、今では私の大切な思い出です
この晨朝勤行ですが、日替わりでお坊さんが短い法話をしてくださいます
どれも短いながらに深く心に染み込むものばかり、、
通い続けるうちに、私は「南無阿弥陀仏」だけで、生きていけるかもしれないと思えるまでになっていました
まあ、母の死をきっかけに、どこか心が病んでいたからかもしれませんが、、
それにしても「南無阿弥陀仏」はなかなか力強いですね!
ある日のお坊さんは、「南無阿弥陀仏は「必ず救う、私に任せなさい」という阿弥陀さまのたからかなる宣言だ」と言っていました
「正しい道を精一杯歩みなさい」という導きの言葉だと説明されたお坊さんもおられました
そして別の法話では「気づきなさい」という目覚めの言葉として紹介されたこともありました
南無阿弥陀仏
その一言には、実に多くの意味が込められているみたいです
で、、
阿弥陀さまが存在してくださるということは、法蔵菩薩が立てた四十八の願いがすべて成就されたということ、、
つまり、阿弥陀様が存在しているということで、すべての人はこの世ですでに救われているということを意味しているらしい、、
特別な修行をしなくても、ただ生き抜けば、誰もが極楽浄土に導かれる、、
それが、浄土真宗の教えみたいです
だから「救ってくださり、ありがとうございます」といった挨拶は、過去形でよいらしいです
、、、なーんちゃっての理解ですが、、、
「死」
母の死を受け止めるのに、私はずいぶん時間がかかった感じがします
でも死という最大の不安と向き合ったとき、浄土真宗の教えは私に、確かにひとつの安心を与えてくれました
もちろん、これからどう変わっていくかはわかりません
違う宗教に向かうかもしれません
でもこれからもまだ親鸞さんのことを学んでみようかな、と思っています
「死」についてもう少しだけ、、
私たちはいつか必ず死を迎えます
それは避けることのできない現実であり、どれだけ考えても明確な答えが見つからない問いでもあります
「それほどの悪いことをしていないのに死刑を宣告されているような」苦しみに、、
阿弥陀さまは「何があっても救ってやるよ」と言ってくださる
何もかもね
「そんなに大変なことじゃないよ」と、死の重さをも、そっといなしてくださるような、、、
「何があっても必ず救うから、心配しなくていいんだよ」
そう語りかける阿弥陀さまの力強い言葉に、私は
「今日を精一杯生きよう」と、そう思わせてもらえている感じがします
ありがたいことです
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