「医療か自然か」で分断してて、本当にお産は良くなるのかな、って、、

逆子、安産について

医療か自然か——その二択で、お産は良くなるのか

最近、助産師さんと話をする機会が増えています。

地域で産後ケアに関わりながら、県立病院で長年現場に立ち続け、今も助産師会や学校で「命の授業」をされている方。

いわば、現場を知り尽くした“レジェンド助産師”です。

その方は、決して強く否定しません。

ただ、こう言うのです。

「うーん、別の角度も、あるかもしれないね」

この一言に、何度も考えさせられてきました。


出産は「正しさ」で語れるものなのか

正直に言うと、助産師さんってズバッと言う方も多いです(笑)。

でもそれは冷たさではなく、
“正解のない現場”を何十年も見てきた人の誠実さだと思っています。

命に関わり、選択の結果を何度も見届けてきた人の言葉は、軽くありません。


私が見てきた、4つの出産

私は鍼灸師として逆子治療に関わりながら、私生活では、妻の4回の出産をそばで見てきました。

・正常分娩
・鉗子分娩
・緊急帝王切開
・予定帝王切開

いわば、フルコンプリートです。

だからこそ思うのです。

助産院での出産や、主体的なお産の大切さも感じる一方で、

「もし、何かあったら」

という感覚も、どうしても消えません。


「医療か自然か」という違和感

妊娠・出産の話になると、

・医療か自然か
・どの産み方が正しいか

という“強い二択”で語られることがよくあります。

でも、本当にそうでしょうか。

医療が女性の主体性を奪ってしまう場面もあれば、医療が命を守る最後の砦になる場面もある。

どちらも事実です。

だから私は、この二択にどうしても違和感を感じてしまいます。


奪われているのは「考える力」かもしれない

最近よく聞く問いがあります。

産む側が、考え続ける力を奪われていないか

医療に任せていれば安心。
専門家が判断してくれる。

それは間違いではありません。

でも同時に、
考えなくていい構造
の中に置かれている人も、少なくない気がするのです。

そして多くの場合、
考えられないのではなく、
考える材料がないというのも事実かもしれません。


人は「ロールモデル」で考え始める

これは、私自身の体験でもあります。

昔、山で出会った70代の男性。
裸足で山を歩き、ザックを背負い、途中でお酒を飲んでいる。

名前も知らない人ですが、

裸足で歩いてみたい

そう思うには十分でした。


【以前書いたブログより】

人生のロールモデルは「近所の変人」だった|80歳の生き方に学ぶ人生の面白さ

「足ってね、怪我をしながら育つんだよ」
なんたる名言!

「ですよねー!!」
「やっぱりそうですよねー!!」


出産も同じだと思うのです

こんな出産をした人がいる
それを楽しそうに語る人がいる

それだけで、人は考え始めます。

実際、
助産院や自宅出産を経験した方の多くが、「また同じ形で産みたい」と話します。

でも、こうした声は表に出にくい。

ネットでは炎上しやすく、語る人が減ってしまうからです。

結果として、ロールモデルが見えなくなる。


選択肢が見えない時代

本来、出産にはもっと多様な形があります。

  • どこで産むか
  • 誰と産むか
  • どんな環境で産むか

でもそれを知る機会は、とても少ない。

だからこそ、考えようにも考えられない。


私が大切にしたい関わり

私は妊娠も出産も経験していません。

子育ても、「正解だった」とは言えません。

でも、子育てに関しては
最善だったと思いたい

そう思っています。

その背景には、
そのままでいいんだよ

と言ってくれるロールモデルの存在がありました。


【昨年書いたブログから】

「そのままでいいんだよ」ではなく、
そのまま“が”いいんだよ

「で」ではなく「が」
この助詞の違いに、今のままの存在を、まるごと強く肯定したいという力があるように思うのです

生きててくれて、ありがとう


出産に必要なもの

出産も同じだと思います。

  • ロールモデルがあること
  • 語れる場があること
  • 考え続けられる余白があること

この3つがあるだけで、
出産は「選ばされるもの」から「選ぶもの」に変わっていく。


正解はないからこそ

正しい出産は、ありません。

だからこそ、すべての出産を肯定しながら、
その人の物語を守りたい。

妊娠中の方には、
不安を消すのではなく、一緒に揺れる関わりを。

産後には、
「これでよかった」と思える振り返りを。

七施鍼灸院として、
そのお手伝いができたらと思っています。

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