日本では昔から「幽霊やお化けよりも、人の目のほうが怖い」と教えられてきたように思います。
ベネディクトの『菊と刀』第12章「子供は遊ぶ」には、こんな指摘があります。
日本の社会において、もっとも大切なことは、世間に受け入れられること。そのために恥の概念はとても大切で、批判されることへの畏れ、仲間はずれにさえる事への恐怖、それを幼少期に徹底的に植え付ける
この本が出版されてから75年以上が経ちましたが、状況はそれほど変わっていないように思います。
むしろ、ネット社会の発達によって、「人の目」を気にせざるを得ない場面は、ますます増えているのかもしれません。
そういえば以前読んだ記事に、「今の若者、特に“いい子症候群”の子たちは、平均的であることを絶対の最重要課題のように感じている」と書かれていました。
日本では、あらゆる場面で「人の目は幽霊よりも怖い」という価値観を、さまざまな角度から教え込まれてしまうのだと思います。
生きやすさを求めるのであれば、加藤諦三先生のいう「非社会性」を十分理解し、「人に気にされない心」を自然と身につけることが大切になるかもしれません。
映画『すばらしき世界』では、主人公の三上が社会に戻る難しさが描かれていました。
日本では、「一度道を外れると戻れない」と子どもたちは脅されるようにして育ちます。
昔も今も、そこはあまり変わっていないのでしょう。
集団の中では誰もが“名無し”として生きる日本では、道を外れた人へのレッテル貼りはとても強いものです。
だけど、いったん “個の世界” に目を向ければ、いい人はたくさんいますし、『すばらしき世界』のように温かい場面はあちこちに転がっています。

エビネット上では
- 「エビデンスが!」
- 「法律的には!」
- 「人としてどうなん!」
といったおせっかいな“正義の声”が飛び交い、それが相手の顔が見えない世界でどんどん加速しています。
自分の正しさ誰とも知らない人と寄ってたかって根拠付け、そこから外れた人をみんなで叩く――
そんなシステムが、いつの間にか出来上がってしまっているようにも感じます。
一度外れると、戻るのがとても難しい日本社会。
『すばらしき世界』を見ながら、「日本は何世紀も“人の目”を気にしてきた社会で、これからもそれは続くんだろうな」と、改めて思いました。
だからこそ、勉強よりも何よりも、ピリピリした空気の中でも、自分の居場所を見つけられる力を子どもたちに育ててあげたい。
良い学校へ行くとか、良い会社に入るとかよりも、ずっと大事なことなんじゃないか――
子育てが終わっていうのもなんなのですが、そういうことを思う今日この頃です。

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