瞑想から思い出した視覚と聴覚に偏る今の子育て

考えていることについて

以前、千葉で10日間の瞑想を体験したことがあります

1日12時間、誰とも話さず、目も合わせず、ただ座り続ける、、
自分の内側にだけ意識を向ける、なんだか不思議な時間、、

その中で気づいたことのひとつが、
目や耳から入る外の情報を遮断すると、触れる・感じるといった“内なる感覚”が驚くほど際立ってくる、ということ、、

ただ身体の感覚に集中することが、なかなかに心地良くって、、

過去を追うことなかれ、未来を追うことなかれ。
過去はすでに過ぎ去れり、未来はいまだ来ざりき。
ゆえに、ただ今なすべきことを、そのところにおいてよく観察し、
揺らぐことなく動ずることなく、よく見極めて実践せよ。
ただ今日なすべきことをよくなせ。
誰か明日の死あることを知らん。
──『賢愚因縁経 大聖武』より

「今」に全集中!!

まさに、過去でも未来でもなく、「いま、ここ」にある身体の感覚に意識を向けることを実践することで得た実感


ところで視覚や聴覚についてですが、
この二つは触覚・味覚・嗅覚に比べて、どこか身体から遠く離れた感覚です

だから目や耳で得た情報は、どこか実体を持ちにくく、確かな手応えに乏しいんです

だけど今の世の中は視覚と聴覚ばかりが優先されてますよね

実際、子どもたちの生活も、身体感覚が置き去りにされている感じがします

私は、視覚や聴覚に頼る暮らしを幼い子どもに強いることは、まるで服を着せずに冬山に放り出すようなものだとすら思っているほど、、

哺乳類、特に霊長類は保育期間が長く、そのあいだに「肌で感じる絶対的な安心感」を得る必要があるんじゃないかな、って、、

その時期にその安心感が満たされなければ、生きづらさを抱えるのは自然なこと

だから
視覚と聴覚が支配するこの時代にあって、「触れる」ことを意識的に大切にする

それって、子育てにおいて一番大切な視点じゃないのかな、って思うほどなんです

実際に、“触れること”を日々の暮らしの中で丁寧に重ねながら育った子どもたちは、自分自身とのつながりを感じながら、まわりの人とも柔らかく関係を築き、のびやかに育ってる!

まったく誰にも触れることない瞑想から
「触れる」という営みの尊さに思いを馳せた日を懐かしく思いだした私でした!!

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