どうせ死ぬ。
当たり前だけれど、おそらく誰に聞いても意見の割れない事実だと思う。
健康に気をつけても死ぬ。
気をつけなくても死ぬ。
医療を尽くしても死ぬ。
尽くさなくても死ぬ。
この事実の前で、ふと足が止まることがある。
「どうせ死ぬのに、生き続ける意味って、なんなんだろう?」
重たい問いなんだけど、
考え始めるのはたいてい、コーヒーを飲んで一息ついたときだったりする。
人間って、案外そんなものだと思う。
人は必ず死ぬことを知っている。
でも生存本能は、その事実をまったく受け入れない。
怖い。
失いたくない。
続けたい。
頭では理解しているのに、
身体は「終わってたまるか」と抵抗する。
多分このねじれが、
虚無の始まりであり、苦悩の始まりなのだろう。
そして同時に、
それこそが「生きている証」なのかもしれない。
精神科医のヴィクトール・フランクルは、こんなことを言っている。
「苦悩が人生を意味あるものにする」
意味があるから生きるのではない。
生きる過程で、意味が立ち上がる。
さらに彼は言う。
「人生が私たちに何を期待しているのかを問え」と。
答えを探し回るより、
投げかけられた問いの前に立ち続けること。
難しい。
でも、
それ自体が「生きる」ということなのかもしれない。
仏教も、「なぜ生まれたのか」より「どう生きるか」が重んじられる。
最近よく向き合っている「妊娠・出産」という現象は、その矛盾を引き受ける。
必ず死ぬ命を、この世界に迎え入れる。
それを祝福する。
理屈だけ見れば、ずいぶん無茶だ。
それでも人は、
「生まれてきてよかった」と言わんばかりに命を宿す。
合理性ではない。
そこにあるのは、「生きようとする力」への無条件の賛同だ。
正直に言えば、
生きる意味など、最初から用意されているわけがない。
僧侶のアルボムッレ・スマナサーラ長老曰く
「死んでいないから生きている」
それだけの話かもしれない。
でも、それだけでは人は生き続けられない。
だから長老はこうも言う。
「心を育てるために、死ぬまで生きてみよう」と。
人生も、妊娠も、出産も、子育ても、
管理しきれる話ではない。
それでも考え、揺れ、立ち止まりながら生きる。
その過程そのものが、意味になるのだと思う。
ここで、正岡子規 の言葉を一つ。
悟りといふ事は、如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていた。
それは間違いで、悟りとは、如何なる場合にも平気で生きて居る事であった
—『病牀六尺』より—
死ぬと分かっていても、平気で生きていく。
それが悟りなのだとしたら、
何食わぬ顔で、
何食わぬ顔をして、
飄々と生きようとする姿勢こそ、
生きぬく知恵なのかもしれない。
私なりに、四回にわたって
「正しさ」
「安全」
「最善」
そして「生と死」について考えてみました。
当たり前ですが、
どれも答えは一つでは語れません。
そして問いは、
きっとこれからも更新され続けるのだと思います。
人は、
妊娠し、産み、育て、病み、そして死へ向かう。
『生老病死』の苦しみを知りながら、それでも生き続ける。
かなりしんどい営みです。
でも、
問いを問いのまま持ち続けること。
それを他人に委ねず、
自分の頭で考え続けること。
安全の名のもとに。
最善の名のもとに。
考えることまで手放さないために。
たまには、
こんなことを静かに考えてみる時間も、ありですね。
意外と、悪くないものだなと思っています。
「それ、医学的には正しいんですよね。」
その一言で、思考が止まり、人の不安が置き去りにされることがある。無痛分娩や逆子、帝王切開の現場から、医療の“正しさ”と向き合う第一回。
「念のため、安静にしておきましょう。」
その一言で、医療は安全になる。
でも同時に、人が考える余地は、静かに消えていく。
妊娠・出産の現場から見える、“安全”という名の不自由さについて。
計画は裏切られる。でも人は生きている。
インド放浪、農業、協力隊の経験から見えた「管理できない世界」。
最善を一つに決める社会の中で、失われつつある“考える余白”について。
正しさの先にあるもの — どうせ死ぬ、それでも生きる(正しさのその先へ4)
どうせ死ぬと分かっているのに、なぜ人は生き続けるのか。
医療の「正しさ」から始まった連載最終回。安全・最善・生と死を通して、“問いを手放さない姿勢”について考えました。







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