ずっと気になっていた映画
「小学校 〜それは小さな社会〜」を、ようやく観ることができた。
観終わって最初に浮かんだ感想は、
「ああ、私たちはこんなふうに、わりと手間ひまかけて“日本人”に仕上げられてきたんだな」という、妙な納得だった。
入学式に始まり、授業、掃除、給食、運動会。
整列、号令、黙って聞く、空気を読む。
画面に映るのは、
- あっ、それ知ってる
- それ、今もやってる
- え、令和でもそこ踏襲してるの?
そんな懐かしさとツッコミ待ちの光景ばかり。
けれどもこれは、
単なるノスタルジーではない。
自分自身も通ってきた原風景だ。
でもそれを知らない人が見たら、
日本という社会の縮尺1/10・超高精細ジオラマを覗き込んでいる感覚に近いんじゃないかと思うんだ。
そんな中、
子どもたちは、小学校という小さな社会の中で役割を与えられ、近すぎず、遠すぎずの距離感を学ぶ。
ぶつかり、すねて、泣いて、
それでも翌日には、何事もなかった顔で同じ教室に座り、同じ給食を食べる。
そうやって彼らは、
「個として生きる前に、集団としてどう振る舞うか」という、わりと高度で、わりと理不尽で、しかも一生使うスキルを身につけていく。
先生たちもまた、完璧な大人などではない。
悩み、迷い、葛藤しながら現場に立ち続ける。
子どもたちを「賢くする」というより、
「この国で、なるべく詰まずに生きていける人間」に育てようとしているように見えるのだ。
テストの点より、協調性。
自由な発想より、まずトラブルを起こさないこと。
そう考えると、
日本の小学校は教育機関というより、社会適応のための長期・強制参加型ワークショップなのかもしれない。
静かで、秩序正しくて、
ちょっと息苦しくて、
でも確かに、優しい。
この映画は、
日本人にとって「当たり前すぎて誰も説明しない訓練風景」を、静かに、しかし一切ごまかさずに映し出している。
そんな感じで、観終わったあと、
「小学校って、まあ、こういうもんだよね」と、飲み込んできた人生の理由が、少しだけ言語化された気がしたのだ。
さて、日本の教育といえば、だいたい次のように批判される。
- 画一的だ
- 校則が厳しすぎる
- 創造性を殺す、詰め込み教育だ
うん、正しい。
正しすぎて、反論の準備運動すら不要。
自由研究と銘打っておきながら、
最終的には「みんな同じフォーマット」で提出させられる国。
想像力は自由。
ただし、書式は絶対。
「落ちこぼれを出さない」という優しさの裏で、
全体の歩幅は最も遅い子に合わせられる。
その結果、学ぶ意欲のある子どもは、
放課後の第二教育システム(=塾)へと自動転送される。
公教育はベーシックインカム。
塾は課金制DLC。
親の経済力で難易度が変わるあたり、わりと残酷な仕様だ。
それでいて、はみ出る子への耐性はかなり低い。
空気を読めないのは個性ではなく、
だいたい「指導対象」として処理される。
陰湿ないじめがなくならないのも、
この社会設計の副作用だと思えば、納得がいってしまうのがつらい。
……と、ここまで書いておいてなんだけど、
はみ出し気味で生きてきた私が言うのもアレなのだが、
この映画を観て、こんなことを思った。
今の日本で生きるための最適解が、この一見・旧態依然とした学校制度なのではないか、と。
人間は、思っている以上に弱い。
コミュニティから外されれば、生きていけない生き物だ。
集団に受け入れられなければ、生存確率は一気に下がる。
だから日本の教育がまず教えるのは、
「どう賢くなるか」よりも、
「どう嫌われないか」なのだ。
というのも、日本は有事が多すぎる。
四季は情緒的だが、
湿度も寒暖差も、普通に敵。
夏のアスファルトの放熱量は、ほぼ煮込み料理。
熱帯夜に至っては、
アフリカ育ちの人が「いや、これはキツい」と言う強烈レベル。
世界の陸地面積の約0.25%しかないのに、
マグニチュード6以上の地震の約20%が発生する国。
「Tsunami」が世界共通語な時点で、説明はだいたい終わっている。
地震、台風、大雨、猛暑。
雪は「遠慮? なにそれ?」という顔で降ってくる。
北海道から沖縄まで、安全地帯ゼロ。
自然は年がら年中、不眠不休でこちらの生存能力をテストしてくる。
そんな土地で村八分にされたら、
ライフは秒でゼロ。即・ゲームオーバーだ。
だから、
・勝手な行動をしない
・指示を聞く
・周りを見る
・和を乱さない
これらが美徳になるのも、まあ無理はない。
そういえば、
そんな日本社会について、海外で活躍されている方の投稿が飛び込んできた。
日本人は、極めて高度な前提共有のもとで生きている。その前提があるからこそ、日本では多くを語らずとも社会が回り、意図が伝わり、他人の立場を想像し、衝突を避ける方向へと自然に行動が収束していく。これは決して弱さではなく、長い時間をかけて磨き上げられてきた、集団としての高度な能力だと僕は思っている。—— 吉田隼
多くの国で、「言わなくてもわかるでしょ?」は、ほぼ通じない。
- 言わないと伝わらない。
- 確認しないとズレる。
- 空気を読む前に、まず言語化。
そんな国がゴロゴロしている中で、日本の前提共有能力、冷静に考えるとだいぶ異常に見えるみたいだ。
ただ、ここから少々ややこしい。
この圧倒的なる秩序、
「安全」と同時に「息苦しさ」を生み出すのだ。
そして、
この高度すぎる前提共有能力や秩序感覚の基礎訓練が行われている場所こそ、日本の小学校なのだろう。
創造性より、まず秩序。
自由より、まず生存。
あれは洗脳ではない。
ハードモード日本で生き延びるための、初期チュートリアルだ。
そう、日本の学校とは、
毎日が避難訓練をしているような場所。
整列。
号令。
給食。
掃除。
まず並べ。
話はそれから。
創造性?
はあ?
なにそれ?
それらはまず、全員が無事に避難できてからの話だ。
有事に勝手な行動をすれば、
それはヒーローではなく、ただのトラブルメーカー。
協調性がなければ、
相手を慮る想像力がなければ、
集団は簡単に壊れる。
だから個性や自主性は、
いったんランドセルの奥にしまわざるを得ない。
まずは装備せよ。
「空気を読む力」という名の、この国で最も汎用性の高い防御スキルを、というわけだ。
そう考えると、
この重苦しくて、人の気配に敏感すぎる社会も、日本というハードモードな土地で編み出された生存特化型OSなのかもしれない。
この映画は、
そのOSのインストール現場を、淡々と、しかし確かに優しい眼差しで映し出している。
そう思って学校を見渡すと、
少しだけ肩の力が抜けて、少しだけ前向きになれる気もしてくる。
ここは、自由を奪う場所ではない。
生き延びるための練習場なのだ。
……まあ、
練習場を出てもなお、
本番がずっとハードモードなのが、日本社会なんだけどね。

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