「それ、医学的には正しいんですよね。」
この一言を、医療の現場で、いったい何度聞いただろう。
正しい。
うん、たしかに正しい。
ぐうの音も出ないほど、正しすぎる。
でもその言葉を聞くたび、なぜか胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
正しさって、こんなに簡単に人を置き去りにするものだったっけ。
最近、そんなことを考える場面が、やたらと増えた。
無痛分娩を早くから取り入れ、その先駆けとしても知られていた、今はもうない「田中ウィメンズクリニック」。
通院していた方から聞いた院長先生の話が、今でも強く印象に残っている。
無痛分娩だからといって、妊婦さんを「楽に」扱う場所ではなかった。
マタニティビクスのスタジオへも、エレベーターではなく、自分の足で上がる。
しかも毎日来なさい、と。
妊娠中だからこそ身体を動かし、体力と同時に、出産に向かうための“気力”も鍛える。
そんな思想が、当たり前のように共有されていたらしい。
今なら
「え、それ大丈夫?」
「そんなことを言って、誤解されたらどうするの?」
と心配されそうな光景だ。
でも当時、それを乱暴だと感じる人は、ほとんどいなかった。
たぶん「痛みを取ること」と「身体を使うこと」は、対立していなかったからだろう。
医療とは、人の力を引き出すもの。
そんな前提が、まだ自然に息づいていた時代だったと思う。
ところが今はどうだろう。
「安静」「安全」「管理」という言葉が、まるで免罪符のように、あちらこちらに並んでいる。
もちろん、医学的にはどれも正しい。
ただ、正しさが前に出すぎると、現場は一気に静かになる。
「運動するといいですよ」と言いかけた瞬間、「もしそれで何かあったら、、」という見えない壁が、医療従事者の前に立ちはだかる。
結果、いちばん安全なのは「何もしないこと」になり、医療関係者の口は、途端にもごもごし始める。
正しい。
でも、どこかおかしい。
そう感じるのは、私だけだろうか。
逆子も同じだ。
かつては、逆子をなんとかしてあげたいという思いとともに、病院にも助産院にも、長年積み重ねられてきた“肌感覚の知恵”があった。
逆子体操、お灸、言い聞かせ、身長や体格、家族歴、出生時体重、胎向、初産かどうか、睡眠、冷え、満月や新月等々。
どれも絶対ではないけれど、「全く意味がない」と切り捨てるには惜しい要素ばかりだった。
骨盤位外回転術だって万能じゃない。
それでも、選択肢の一つとして真剣に向き合う産院が、確かに存在していた。
でも今は、逆子=帝王切開。
説明しやすく、管理しやすく、トラブルも少ない。
医療システムとしては、実に優秀だ。
時間は読めるし、手術である以上、経営的にも安定する。
そうした事情があることは、十二分に理解できる。
その代わり、
「逆子や帝王切開の不安に、医療者としてどう向き合うか」
「今と未来の妊娠・出産・子育ての心配と、どう付き合うか」
そうした妊婦さん自身の問いは、そっと棚に上げられる。
「それ、医学的には正しいんですよね。」
この言葉が悪いわけじゃない。
ただ、その一言で思考まで止まってしまうのが、少しもったいないだけだ。
医療は本来、人を管理するための装置ではなく、人が自分の力を取り戻すための伴走者でもあったはずだ。
正しさのその先に、まだ言葉にならない何かが、確かに残っている。
来週はその違和感について、自分なりにもう少し深く掘り下げてみたいと思っている。

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