此岸と彼岸の連続性―「なんまんだ〜」って??みたいな、、

考えていることについて

なんまんだ〜。

なんまんだ〜。

今回は毛色を変えて、これを唱えたら、阿弥陀っていう仏さまが、無条件で極楽ってところに連れてってくれるらしいよ、ってな話です。


阿弥陀さまは、もともと「法蔵(ほうぞう)」という菩薩だったそうで。

生きとし生けるもの全て、もれなく全員救っちゃう!という、スケール感ちょいおかしめな願いを立てて、気の遠くなるような修行をしたとか。

で、その願いは、、
どうやら成就した、ということになっている。

だって、阿弥陀さまは仏さまとして“存在している”から。

存在、っていうのが、ちょい怪しめだけど、お寺に阿弥陀様がおられる事実そのものが「修行は成功しました!」という証拠らしい。

つまり浄土教だと私たちは生きている時点で、もう「救いは確定」しているってことになるみたい(んっ?これって変態親鸞の浄土真宗だけかも、、)。

だから厳しい修行もしなくていいし、立派な戒名をお金で買う必要もない、っていう実にありがたい仏教みたい。

……いやまあ、そんな単純な話でもないんだろうけど。

それにしても、こんなどうしようもない私たちのために、想像を絶する修行をして、ついには阿弥陀さまになってしまった法蔵菩薩。

その結果、 「生まれながらにして、あなたの浄土行きは確定です」 って言いきっちゃってくれてるわけで。

それ聞いたらさ、 「え?じゃあ何してもいいの?悪いことしても良いの?」 って、思わなくもなかったり。


これ、裏を返して考えると、これって 「生きているけど、すでに死んでもいる」 ってことでもあるのかもしれないな、って。

まぁ、この辺りが今回のブログの言いたいところだったりする。

方角だの、暦だの、祟りだの霊だのね、私たちは昔から、そういうものをものすごく信じてきたけれど。

親鸞さんは、そこをわりとバッサリとね、必要ないって言っちゃってる。

そんな細かいことに振り回されるより、 本当に向き合うべきは、誰にも必ずやってくる「死」なんだよね!って。

どうせみんな死ぬんだから、 死んだらみーんな仏さまになっちゃう、って信じてみてもいいじゃない。

「もう、あなたは十二分に護られてますよ」

そんな声が、どこからか聞こえてくるような。

そんな、浄土に行けるという確約。

人々が浄土教に熱狂したのも、わかる気がする。

その安心感を、理屈抜きで味わってみるのも、悪くない気がする。


此岸(しがん)と彼岸(ひがん)。

こちら側と、あちら側。

この世とあの世。

最近、この二つは案外シームレスにつながっているんじゃないか、 みたいなことが吉本隆明さんの本にあったと思うんだけど。

この世の不安って、 だいたい過去か未来を意識しすぎちゃうからむくむく膨らむわけで

でも、死ぬ間際まで「死」を無視して生きてたら、 もしかしたら、不安も一緒に薄れていくのかもしれない。

ヴィパッサナー瞑想でやるみたいに、 ただ「今の感覚」に意識を向けるっていうの、なんだかここにつながっくる感じがする。

それって、死への不安にも、意外と効くのかもな、なんて思ったり。

死の話って、どうしても避けられがちだけど。

「後悔先に立たず」って言うくらいだから、 生きているうちに、近しい人と死の話をしてみるのも、悪くない。

あっ、ちなみに私、母に生前、 「どこで死にたい?」 って、聞いたことがあったりする。


生と私がシームレスにつながっているのなら「生きながらにして、すでに死んでいる」という考え方、自分の中では面白く感じている。

どうせみんな死ぬんだし。 死も案外たいしたことじゃないのかもしれない。

……とはいえ、 生き続けたいとか、子孫を残したいとか、自己保存本能とか種族保存本能とか言うのかな、そんな圧倒的なる本能の前で、 死が巨大なる壁であり続けるのもまた事実

その矛盾を丸ごと抱えて、 今日も「なんまんだ〜」とつぶやきながら、 こちら側を生きていく。

そんなスタンスで、ちょうどいいのかもしれないな、って適当に考える今日この頃なのです。

おおしたさん
yochy_take
この記事を書いた人

鍼灸師,あん摩マッサージ指圧師 /東京では小児はりや妊婦さんを多く手がけていました /特に逆子は2200人以上を経験 /広島県安芸郡府中町出身 /青年海外協力隊にてパナマ派遣 /2024年6月まで外苑前で鍼灸院を20年経営 /子ども4人はすでに成人

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