この言葉は、ずいぶん前に国立競技場の裏手にある慈光寺さんの掲示板で目にしたものです。
気になってメモを取り、後で調べてみたところ、浄土真宗の藤代聡麿さんの言葉だと知りました。
過去の出来事や失敗そのものは変えられないけれど、これからの生き方次第で、あの辛い経験に新しい意味や価値を与えることはできる。
私はそう解釈しています。
ところで「運がいい」「運が悪い」という言葉をよく耳にしますが、無縁坂の歌詞じゃないけれど、そもそもその運の良し悪しを誰が決めるのでしょうか。
たとえば、子どもにガンが見つかり、必死に闘病を支えた家族がいたとします。
もちろん「あんな思いは二度とごめんだ」と思うでしょう。
でも振り返ったときに、「あの経験があったから家族が一つになれた」「自分が強くなれた」と感じることもあるはずです。
短い視点で見ればただの「不運」でも、長い目で見れば、それを本当に「悪い出来事」と決めつけることが誰にできるのか、と私は思います。
鍼灸師という仕事柄、陰陽五行や方角、暦など、占いに近い考えに触れることも多くあります。
そのため、スピリチュアル系の方々とお会いする機会も自然と増えました。
以前の私は自分のスタンスをはっきり示さず、人の誘いも断れず、そんな集まりに顔を出すこともありました。
ある飲み会で、スピリチュアル界隈の大御所らしき方と意気投合したときのこと。
その方が私の日本酒のコップに手をかざして「おおしたさん、飲んでみて!」と。
場を壊さないように「何と言えばいいんだろう」と迷っていたら、取り巻きの一人が「ちょっと飲ませて!」とコップを取り、「まろやかになってる」と。
「ああ、まろやかが正解だったのか」と思いましたが、よく考えれば、その人は手をかざす前の味を知らないはずです。
そんな疑問が積み重なり、私は次第にスピリチュアルと距離を置くようになりました。
手かざしでお酒が美味しくなろうが、東に行くと運気がどうこう言われようが、「だから何?」と思うのが今の私です。
運の良し悪しも、結局は自分がどう捉えるか。それだけです。
私たちは、業や宿命という抗えない「苦海」を泳ぎ続けています。
だからこそ、起きた出来事を「ただ辛い」で終わらせず、自分なりの解釈で新しい物語を紡ぎ直すことが大切だと感じています。
もちろん、一人では抱えきれないこともあります。そんなときは誰かを頼ればいい。
私は親鸞の「すべてを阿弥陀様が引き受けてくださる」という教えに支えられました。不安が募るときは、恥ずかしげもなくそこに頼ります。それでいいのです。
だから「これからがこれまでを決める」という言葉は、私にとってとても真実味があります。
出来事自体は変えられない。でも、その出来事をどう見るかは変えられる。
その見方次第で心の重さは変わるし、前を向くこともできる。
それが人間のすごさだと思うのに、世の中には、何でもかんでも「負」にばかり捉えようとする人が多いと感じます。
私たちはいつも前向きではいられないからこそ、物事をどう解釈するかを学ぶことが大切です。
それは、子どもに最初に伝えたいことの一つかもしれません。
もちろん、口で教えられるものではありません。
でも親がそういう姿勢で生きていれば、子どもはきっとその背中を見て育つと思うのです。
不安を占いやネットに頼るのではなく、自分で向き合っていく姿を見せること。
そんな親でありたいと思っています。
広島県安芸郡府中町
七施鍼灸院
大下義武
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